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ボージャン、ユーロ2008を断念した理由を明かす

ユーロに行きたかった、でも心身は限界だった。

カンテラーノをバーゲン価格で放出することは、もはや伝統芸といえるバルサ。マルク・バルトラを800万ユーロで手放したのはまだマシなほうで、過去の移籍記録を見ると、フォンタスが100万、グリマルドが150万、ジョナタンが150万、ビクトル・バルデス、クエンカ、ムニエサ、ノリート、サンドロが自由移籍などなど、無料から100万ユーロ台の放出がずらりと並んでいます。育成カテゴリーでレオ・メッシの得点記録を次々に塗り替え、バルサの将来を担うとされたボージャン・ケルキックもそのうちの1人で、180万ユーロでの移籍でした。

順調に見えたトップデビュー後、吐き気が始まる

育成カテゴリーで通算900点以上をあげ、ラ・マシアにすごい少年がいるぞ、とカンプノウ界隈をざわつかせていたボージャン・ケルキック少年が、一躍世界の注目を浴びる存在となったのは、5ゴールを決めて得点王に輝いた2006年のU-17欧州選手権でのことです。つまりあれから今年で10年となりますが、その10年間にボージャンメッシイニエスタのようにクレ社会をときめかせた10代のカンテラっ子が出てこないのは、簡単に出てこないからこその天才だとしても寂しいものです。

まあそれはさておき。6月6日付のMARCA紙にこのボージャンのインタビュー記事が載っていまして、それがなかなか興味深い内容となっています。記事の中心となっているのは、超新星としてスペイン代表としても期待を集めていた彼が、何故2008年のユーロ出場を断念したのかボージャン曰く、その当時の彼はデビュー1年目にして公式戦12ゴールと華々しい成績を残しながらも、実は著しい体調不良に悩まされていたそうです。

「始まりは2007/08シーズンのことだった。僕はトップチームと一緒にプレシーズンを行って、その後U-17欧州選手権に行って、バルサに戻るとすぐにミスターがリーガとチャンピオンズで僕をプレーさせて、初得点を決めて、、全てがとても速く進んでいたね」

「1月までは順調だったんだ。ある日僕は友達がオープンさせたジムの開店祝いに行ったんだけど、セレモニーが終わると全員が立ち上がり、僕の方へとやってきてね。小さな場所だったから僕はすごく圧倒されたよ。それでかなり暑く感じるようになったから、服を脱ごうとしてシャワー室に行ったところ、強い吐き気を感じ始めたんだ。そこから状況は変わっていったよ。僕は試合でも吐き気を感じるようになった

四六時中、治まらない症状

試合で吐き気が発生したのは、2008年2月3日のオサスナ戦(カンプノウ)のようです。「試合前のホテルで、少し胸が悪くなったんだ。ミスター(ライカー)がメンバーを発表して、僕は先発だった。何か対処が必要だったから、バスの中でドクターに少し調子が悪いと伝えたら、彼はカフェインの錠剤をくれた。試合では良いプレーをしたよ。それで家に帰ってベッドに倒れこんだら、突然震えと痙攣がきてね。家族ですごく不安になって、その夜は病院で過ごしたよ。それから全てが始まった。一日中吐き気が続くようになったんだ」

むかむかの無い時は1秒もなかった。時々はマシになったけど、それは薬によってだった」

何故そういう不快感が起こったのか。ボージャンはこう説明しています。「僕はけっこう感受性の強い人間だったから、物事から強い影響を受けたし、僕のフットボル世界はすごく理想化されていた。ビッグチームでプレーする評判や一流選手に囲まれた生活、それにゴールを決めて(メディアに)取り上げられたりと、暮らしが変わったんだ。僕の上にプレッシャーが圧し掛かってきた。全てがコントロールされていると思うことも、実際はそうじゃないんだ」

代表監督から呼ばれる

強い精神不安による症状と診断されたというボージャン。自律神経が乱れることによる不快感は相当なものがありますから、プロフットボル選手がそういう状態でチームメイトたちと競っていくのは並大抵ではないでしょう。当時のデランテロはエトーロナウジーニョアンリに加えてさらにメッシがいて、という強烈な面子でした。

当時17歳のボージャンは、チームメイトたちに嘔吐感の症状を明かしていなかったようです。周りから見れば、順調そのもの。スペイン代表監督ルイス・アラゴネスからお呼びかかかったのも、その頃です。

「最初の電話は2月だった。オサスナ戦の前に起こったことを知っている人は、ロッカールームにはいなかったんだ。僕と両親は、どうしようかって考えたよ。マラガでのフランス戦だった。僕は出来るかぎりのことをしたよ。試合の日、スタジアムに到着した時は全てが順調に思えた。気分が悪くなってきたのは、ピッチを見て、ロッカールームに戻って椅子に座った時さ。僕の隣りにはイニエスタがいてね、“アンドレス、気分が悪い、気分が悪くなってきた”って言ったんだ。僕らは部屋の角にいたから、担架のところまで行くためには、みんなの前を通らなければならなかったのを覚えてるね。僕は立ち上がる勇気がなかった。それでドクターやフィジオ、フェルナンド・イエロルイス・アラゴネスたちがやって来たから、僕は自分の身に起こっていたことを説明したよ」

そこで彼と家族は連盟の人たちと、報道陣にどう説明するかを協議したそうです。事実を公表することを拒んだのは彼の両親。連盟はボージャンが「胃腸炎を患っている」と発表し、吐き気の件は伏せられました。

「複雑で難しい状況だったね。僕はあまりにキツイ症状に悩まされていたけど、本当の理由は示せなかった。薬によって体調的には良かったし、シーズン終了まで欠場したのは2試合だけだったけど、本当に限界だったよ。この状況を知っていたのは両親とカノジョ、弁護士といった本当に身近な人たちだけだった」

ユーロを戦える状態になく、断念

ボージャンが強度の吐き気を患っていることを知っているスペイン連盟でしたが、彼らは2008年夏のユーロへと彼を招集します。「僕は限界にきていた。途中で気を失って倒れるんじゃないか、と常に緊張して試合に行っていたんだ。ルイスからはリストが発表される前日に、僕を呼ぶつもりだと電話を貰ったよ。それに僕は、行きたいと答えた。17歳の僕に、スペイン代表監督がユーロへ呼びたいと電話をくれてるんだよ!でも僕は彼にNOと言ったんだ。“僕には出来ない、限界なんです。代表チームに行って、遠征に出るのが怖いです。自分に一人でこの状況に立ち向かえる力があるとは思えません”ってね。すごく悲しかったよ。どんな若者だって、ユーロには行きたいものだよ。彼は僕に、プジと話すと言ってた」

そしてロッカールームへと着いたボージャンの元へ、アラゴネス監督から事情を聞いたプジョル主将がやって来たそうです。「彼は僕に、“オレがずっとキミのそばにいるよ。オレはキミから離れない。だから何も心配することはないぞ。さらにイニエスタチャビもずっとキミと一緒にいる”って言ってくれたよ。それに僕は、“キミは僕のことをもう知っているよね。キミは僕がどうやって試合に立ち向かっていくのかを見てきたし、僕はユーロに行きたい。でも出来ないんだ。僕の身体が、もう十分だと言ってる。僕に必要なのは静けさと、このむかむかから回復することだよ。24時間吐き気があるってのはすごく不快なんだ。自分に遠征の準備が出来てると思わないし、今はその瞬間じゃないんだ。イヤだから行かないんじゃなく、行けないんだ”と答えた。彼は僕の決断を理解してくれたよ」

そのすぐ後、スペイン代表の招集メンバーが発表されたわけですが、メディアではボージャンが招集を断ったと報じられ、生意気な若造め!と立腹した世間から批判も受けたそうです。ムルシアでの試合では、スタンドから野次を受け、ボージャンを罵るチャントもあったとか。シーズン終了後はバルセロナを離れて気持ちを落ち着け、少しずつ薬の量を減らし、6月中旬には一切飲まなくても良いところまできた模様です。「この吐き気はとても僕のためになったよ。(略)自分に何が起こるのか僕には分からなかったけど、自分を強くするだろうと確信していたからね」

最後の質問で、今でも同じ決断をすると思いますか?と訊ねられたボージャンは、こう言い切っています。「あの決断を僕は全く悔やんでないよ。僕は限界だったんだ。5ヶ月に渡って24時間吐きそうになる状態は人には分からないさ。気持ちよく目覚める朝は一日もなかった。集中し、落ち着くためにはTrankimazinを飲まなければならなかった。新しいチームメイトたちとユーロのプレッシャーのなかで代表チームにいる自分を想像してみて、無理だと思ったよ。立ち向かっていくための準備が僕には出来ていなかった」

それから色々あってボージャンはバルセロナを離れ、ローマ、ミラン、アヤックスを経て現在のストークシティへとたどり着きました。でも1990年8月生まれの彼、まだ25歳なんですよね。まだ25歳!年齢的にはまだまだチャンスはあるわけでして、いつかまたボージャンがラ・ロハに呼ばれたら胸が熱いだろうと思うところです。

 

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