スポンサーリンク

ハビマル、ティト、ムニエサ

本日のスペイン・スポーツ各紙は言うまでもなくといいますか、ラファエル・ナダルの全仏オープン優勝が完全なる主役となっています。ノバク・ジョコビッチを破っての勝利は、前人未到となるローラン・ギャロスでの7度目の優勝。各紙の一面には”パリの赤土から天へ”、”神のラケット”などといった文字が躍っていまして、今日ばかりはフットボルの入り込む余地などないという様相です。そこで一紙、わが道を行くのがSPORT紙。ナダルよりもずいぶんと大きく取り上げているのは、”代替案ハビ・マルチネス”であります。

 

◇代案ハビ・マルチネス

この夏のバルサの最優先ターゲットだったと言われるチアゴ・シウバが、どうやらパリ・サンジェルマンとサイン目前というご様子の今日この頃。結局マネーか・・・、と個人的にはとても残念な選択なのですが、望みがなくなった以上、バルサとしてはさっさと次のオペレーションへとチップを切り替えるだけのことです。しかしシティといいPSGといい、交渉のやり取りを一切許さないオイルマネーの破壊力はなんだかなあ、つまらない。アレクシスのように、選手のバルサ入り熱望がなければ勝ち目のない戦いなり。

というわけで、次なるターゲットへと照準を移すバルサですが、テクニコが次に希望すると言われる選手もまた、困難の度合いからいけばチアゴ・シウバに引けをとりません。アスレチックの若きスター、ハビ・マルチネス。バルサからすればブスケツをくださいと言われているようなもので、イヤですと返されることは100%確実な選手であります。わずかな望みは、アンドニ・スビサレッタがアスレチック会長ジョス・ウルティアさんと友人であるという点でしょうか。

力技でハビを獲得したいなら、違約金は4000万ユーロ。さらにここに、18%の付加価値税も必要となります。そんなに多額のユーロを投入したくないバルサとしては、まずなによりも第一に、ウルティア会長に交渉の席についてもらわなければならないのですが、マルセロ・ビエルサにチームを託している彼らですから、監督を怒らせるようなことはまずするわけがない。スビサレッタが古巣相手に強引な手法を用いることもないでしょう。結局のところ、誠意をこめて語りかけ、移籍金を奮発するくらいしか方法はないわけです。

なので、ハビマルもまず無理なオペレーションと見ておくことにします(スビ、頑張って!)。彼のほかにチアゴ・シウバの代役候補として12日付のSPORT紙に名前が挙がっている選手は、チェルシーのダビド・ルイス(25)、マルセイユのジュリオ・ニコラ・ヌクル(カメルーン人。22歳)、そしてバスコ・ダ・ガマに所属するデデことアンデルソン・ビタル・ダ・シルバ(23)。特にあとの2人については知らないのですが、ブラジル国内でプレーするセントラルとしては最高クラスと評価されるデデのあだ名は”デッケンバウアー”だそうで、うちのピッケンバウアーと組ませるとオモシロそうだねというところです。

 

◇ティト・ビラノバとクライフ

今週中(水曜日あたり?)にFCバルセロナとの契約書へのサインを終えるだろうと見られるティト・ビラノバですが、MUNDO DEPORTIVO紙に彼に関する興味深いエピソードが紹介されていました。後にドリームチームを築き上げるヨハン・クライフの監督就任によって、選手としてのティトのキャリアが大きな影響を受けたというのです。

チームを率いる監督が代われば、所属する選手たちの運命にも変化が生じます。グアルディオラからビラノバにバトンが渡った今回のバルサのようなケースではショックは少ないでしょうが、クライフというアクの強い新監督が改革を打ち出すとなれば、チームはガラリと変わる。そこで恩恵を受けたのがペップであり、逆風が吹いたのがティトというわけです。しかもそれがクライフの奇妙で理不尽な決断のせいとなれば、当事者としてはええぇ・・・というところでしょう。それはこんな話です。

1988/89シーズンにバルサの監督となったクライフは、アヤックスから18歳の若者をバルサへと連れてきています。その選手の名はダニー・ミュラー(18)。問題だったのはヨハンがその才能を見込んでミュラーを獲得したのではなく、愛娘チャンタルと良い仲にある青年だったことでした。バルセロナへと来た当初は、ミュラーはモンターニャにあるクライフ家に寄宿していたそうです。

クライフは後のトップチーム昇格の日まで、ミュラーをバルサ・アトレティク(現在のバルサB)でプレーさせます。しかしチャンタルの彼氏は残念ながら、フットボル選手としての才能に恵まれていたわけではなかった。バルサの監督たちはすぐにそのことに気付きました。しかしヨハンの希望があり、ミュラーはフィリアルでプレーしなければならなかった。そして割を食ったのが、このシーズンにバルサ・アトレティクへと昇格していたティト・ビラノバとなります。当時のBチーム監督ルイス・プジョルはこう語っています。

「ビラノバの方がミュラーよりもプレー面でずっと優れていました。彼は中盤の4つのポジションならどこでもプレーできた。彼は右利きでしたが、私は左で起用していました。それでもなんの問題もないほど、彼には高いテクニックがあったのです。私はティトがプレーすべきだと考えていましたので、ミュラーを外し、彼を先発で使い始めました。その結果、私は解雇された。そしてティトはミュラーよりも優れていたのに、プレーの場がなくなりました」

嗚呼、不運なりティト!ちなみにミュラーは監督の長女とのロマンスが終わりと共に、即アヤックスへと送還されています(バルサBでは28試合出場、2ゴール)。そしてティトは翌年もバルサに残り、Bチームでは計52試合(6ゴール)に出場しているのですが、ヨハンからの声はかかっていません。もしミュラーなる青年がやってこなければ、あるいはドリームチームでトップデビューできていたかもしれないのに。

 

◇ムニエサの不思議な病気

バルサの未来のセントラルとして期待されている、マルク・ムニエサ。今年でハタチとなる彼がバルサに入団するきっかけとなったのは、地元のPBリョブレガ・デ・マールでプレーしていた頃、あのアルベール・ベナイジェスさんによってそのポテンシャルを見出されたからだそうです。しかし彼が実際にバルサに入団するには、そこから1年の歳月が必要だった。何故か。SPORT紙の記事によれば、なんでもマルクは当時、ナゾの病気を抱えていたというのです。

10歳頃のムニエサは、ほんの些細な打撲傷でさえ、内出血を引き起こすという疾患に苦しんでいました。接触プレーのあるフットボルでは、これは命取り。なので彼はこの時、プレーを断念し、治療法を求めて病院を渡り歩いたりもしたようです。一度通り過ぎたら、もう二度とは来ないかもしれないバルサ列車が自分のところへ来ているのに、と思うマルク少年の心中は、どんなだったでしょうか。幸い、ある病院で彼はその治療法に出会い、病は完治しています。そしてセットで幸運だったのは、当時のとあるフットボル・バッセ監督が、ムニエサのことをずっと気にかけていたことでした。

それはフェリクス・サンチェスという監督さんでした。彼は毎月、ムニエサ家に電話をかけ、マルク君の調子はどう?と声をかけ続けました。そして彼がプレーを再会した時、1年間フットボルから遠ざかっていてフォームをかなり落としていたムニエサを、バルセロナへと呼んで練習に参加させたのだとか。そうしたことがあって、現在のキラキラ星としてのマルクがあるわけです。しかも彼はカデッテ時代、靭帯を損傷して再び”暗黒の1年間”を過ごしている。来季は是非、夢の実現へと向かう、そのステップの一年になればいいな、と願うばかりであります。アニモ、マルク。

 

コメント