日本からスペインへの移動は実は危険だった、とドクター。
ラージョ戦、アラベス戦、そしてセルタ戦と3試合連続でゴールをあげ、ほぼ完全復活!とファンやメディアを喜ばせているダビド・ビジャ。10ヶ月半前の横浜、クラブ・ムンディアル準決勝で骨折したグアッヘの左脚脛骨はもう、その影を感じさせてはいません。ユーロ出場を逃し、バルサでのシーズン序盤も忍耐を強いられたビジャに、ようやくその報酬を得られる時が訪れた。ゴール後の彼の表情を見るととても嬉しくなりますし、彼を支えたスタッフや家族、ドクターたちの喜びたるや、それはもう言葉では表せないことと思います。
“優れた頭脳のチームリーダー”
しかしながらグアッヘの手術を担当したスポーツ医学界の名医ラモン・クガットさんは、下手をすればビジャは足を失っていた可能性もあったのだとLa Sextaの取材に対して語っています。日本からバルセロナまでの長距離移動には、それほどのリスクがあったのです。「高度8千~1万2千メートルとなる
と、気圧が大きく変化してくる。コンパートメント症候群(筋区画の内圧上昇によって組織の壊死など重大な障害を起こす)を含む重大な負傷、あるいは片脚を失う可能性もありました」
大きな怪我を負っての飛行機移動が、それほど危険なものだとは知りませんでした。深刻な事態とならず、本当に良かったです。
そしてビジャはクガット医師の手によって手術を終えると、ユーロ出場へと復帰目標を設定。痛みを伴いながらも、黙々と行えるトレーニングを積んでいきます。道は平坦なものではありませんでした。夢だったユーロを断念し、仲間たちの偉業に加われなかった悔しさ。そして7月の末にはプレー許可も下りていたのに、ゲームにはなかなか出られない日々。9月末あたりは相当に悶々したことだろうと想像します。しかし少しずつリズムを取り戻させていったミスターのビジャの使い方を、クガットさんはとても評価しています。
「ティト・ビラノバの管理方法はとても良いものでした。少し余力がある方が選手には好いのです。ティトはテクニコになる以前は選手でしたし、彼のビジャの起用方法はとても適切でした」
カタラン名医は続けます。「ビジャは試練を乗り越え、ティトによる適切な管理が重要な役割を果たしました。ここには非常に科学的な見地から物事を調整した、優れた頭脳の持ち主がいたということです。彼はとてもインテリジェントでした」。あのクガットさんをして、ここまで褒めさせるとは、ティトおそるべし。ドクターはさらにこうも語っています。「グアッヘは今、怪我前を上回ってすらいますよ」
(ここまでのティトの怪我明け選手の起用法は、とても慎重で、かつ選手の健康を一番に考えたものとなっています。ドクターの判断よりも選手の”出たい欲求”を優先するクラブもあるなかで、ティトはリスクは冒さない。セントラルが火の車であることからすれば、月曜にようやくプレー許可の下りたピケの復帰も、もう少し急ぎたい気持ちはあったでしょう。しかしミスターは限られた駒の中で上手くやり繰りしてきたわけです。ティトはあるいは、クレが思っている以上の名将かもしれません)
子供時代の大怪我
もちろん、こういう怪我の際に重要となってくるのは、治療を受けていく側の精神力です。伝え聞くところによれば、その点においてもビジャは満点だったわけですが、9歳の時に右大腿骨を折ったという大変な経験も、彼の役に立っていたのではないか、とSPORT紙は書いています。当時の治療を担当したというディオニシオ・クエトス医師は、グアッヘ少年のことをこう振り返りました。「あれはとても厄介な骨折で、私たちは保存治療を採用することにしました。彼はとても良い少年で、協力的でしたよ。自分が長らく動けなくなるという状況をとてもよく解っていて、40日間ほど脚を吊るしている間、一切の問題を起こしませんでした」
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