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ムニール・エル・ハッダディ

驚くべきスピードで階段を上っているカンテラーノ。

FCバルセロナを応援する上での楽しみの一つが、下部組織より時折現れる、将来のクラック候補たちの成長過程を見続けられることです。トップチームに定着できるであろう選手は毎シーズン1人ほどは登場しますが、クラックと呼ばれるクラスに到達できるのはごく一握りゆえ、その可能性を感じさせる若者が出てくるととりわけ胸が弾む。フベニールAに所属していた昨シーズン末から、ヤバイ子がいるぞ、と言われていたムニール・エル・ハッダディは、数年間に一人の選手になれそうな逸材です。ということでメディアは早速、彼の話題で盛り上がり中なり。

一躍多くのファンに知られる選手に

ほんの数週間前までは、フベニールやバルサBの試合までチェックしている熱心なバルセロニスタ以外には、ほとんど無名だったであろうムニール・エル・ハッダディ。今季からはいよいよバルサBでの成長が期待されていた彼でしたが、ルイス・エンリケに呼ばれたプレシーズンで4ゴール(チーム最多)と結果を残し、リーガ開幕戦でもゴラッソを決めたことで状況は急展開。少なくともバルサファンの中では顔と名前が一致する存在になり、新星の登場にメディアもわいわいやっています。

そんなふうにちやほやされることで、勘違いしてしまう若者も中にはいるでしょうが、彼の場合はツイッターにて「幸せだけど、自分がフィリアル(B)の選手なのは忘れていない」とコメントしていますし、ルイス・エンリケもエルチェ戦後の会見で「扱うのが難しい速さでブレイクしているけれど、彼は自然にやっている」と語っていますので、安心でしょうか。最近のラ・マシアの子たちは、名が売れても地に足がついている。目指す目標がもっと上にあるんでしょう。以下、少々長くなりますがムニール情報をまとめてみました。

偶然発見された才能

ムニールはフルネームをムニール・エル・ハッダディ・モハメドといい、そのアラビアンな名から判るように、父親がモロッコ出身です。母親はスペイン人で、両親はムニールが生まれる前にマドリーへと移住。地理的には、アトレティコやエル・レアルの下部組織にいる確率のほうが高かった選手です。実際、首都の両クラブは彼の獲得を試みていたそうですし。

26日のSPORT紙には、ムニールがバルセロナへと至った過程が紹介されています。それによると、彼を最初に発見したのはマドリー方面のスカウトマン、アントニオ・ガバルドン氏でした。ある日マドリー市の北東の町に車を止めて、携帯電話で話している時に偶然目に留まったのがこのムニール少年。左利きのとんでもない少年がいるじゃないか!その後、ガバルドン氏は少年の“保護者”となり、彼は2010/11シーズン、15歳でラーヨ・マハダオンダというクラブに入団します。交通費と携帯電話、シューズやウェア購入の援助がその際の“移籍金”。最初の給与はガバルドン氏からの小遣いで、1ゴールごとに10ユーロがもらえたそうです(30試合出場で32ゴールを決め、320ユーロをゲット)。

ちなみにムニール一家は父がコックさんで母がお手伝いさん。生活は楽ではなかったらしく、マハダオンダのフットボルスクール代を支払うことが出来ず、クラブの奨学生としてプレーをしていたそうです。その家族の暮らしを一変させたのが、ムニール少年の溢れるフットボルの才能だったのです。

すぐさま獲得に動き、成功したバルサ

ラーヨ・マハダオンダで頭角を現したムニールは、すぐさまスペインの強豪クラブたちの目に留まりました。SPORT紙によれば、オサスナ、ビジャレアル、レアル・マドリー、さらにはマンチェスター・シティまでが、彼に誘いをかけたらしく。しかしムニールはそれらを丁重に断っています。より可能性があったであろうのは、マハダオンダからほんのすぐ近くの距離にあるというアトレティコ・マドリーです。この両クラブはご近所さんであるだけではなく、提携も結んでいるとのことで、順当に行っていればエル・ハッダディは赤白マドリーの選手になっていたのでしょう。実際にアトレティコは地元のキラキラ星と契約するべく、彼の元を訪れています。

しかし、アトレティコはその時すでに、バルサの後塵を拝していました。ファインプレーをしたのは、カスティージャ=レオン方面のスカウトマン、ホセ・ルイス・コロモさんでした。ムニールがラーヨ・マハダオンダで活躍していた2011年の4月、コロモはアルベルト・プッチ(フットボルバッセのディレクター)に電話をかけます。スゴイ選手を押さえてあるから、急いで見に来てくれ。コロモさんは見る目が厳しく、余程の少年でないと連絡をしてこない。これはただ事ではないに違いない。プッチはさっそく、フベニールB監督ガルシア・ピミエンタを派遣しました。そこでムニールは、右足、左足、さらには頭によるゴールでハットトリックを決めて見せた(SPORT)。ピミエンタ監督の結論は言うまでもありません。

バルサからの申し出が届いた当初は、遠く離れたカタルーニャへと移り住むことにムニール一家は幾らかのためらいがあったそうです。しかし彼は最終的にラ・マシア入寮を決め、それから3年が経過した今、カンプノウでクラック選手への階段を上り始めている。マドリーの人たちは残念でした、というお話です。

フベニールBで2年間

しかし、そこからの道のりは平坦ではなかったそうです。ムニールはまずフベニールBからバルサ生活を始めるのですが、豊作の世代である95年組にはドングウサンドロといった将来を有望視されるデランテロたちがいて、彼らはすでにバルサBとフベニールAでプレーをしていました。さらには1歳下には、カデッテAから飛び級でフベニールAへと昇格したトニー・サナブリア(どこかへ移籍)もいるという競争の激しさ。結局ムニールは2年間フベニールBに所属し、リーグ2連覇に貢献しながら機会の到来を待ち続けることになります。

通常、フベニール世代では2年続けて同じチームに所属するのは大きな停滞。腐るケースも珍しくないようです。しかしムニールはそれを受け入れ、より闘志を燃やして結果を出した。MD紙によるとエル・ハッダディは2012/13シーズンの最後はフベニールAでプレーしながらも、カタルーニャ選手権決勝に出場するためにBへ戻ることを求め、見事1ゴールを決めたのだそうです(チームは優勝)。

そして去る2013/14シーズン、ムニールは躍進の一年を迎えます。UEFAユースリーグではシャルケとの準決勝、ベンフィカとの決勝でネットを揺らし(決勝での超ロングシュートで度肝を抜いた)、バルサBに呼ばれた終盤もセグンダで4得点。サナブリアの退団によって空いた穴に食い込んだのですが、このあたりの機会の活かしっぷりはさすがです。フベニール所属だった選手がわずか一年後にトップチームに呼ばれるのは、2003/04シーズンのレオ・メッシ以来だそうです(MD紙)。

ムニール・エル・ハッダディがそのメッシのような、ギガクラックになれるかどうかは今後の成長次第でありますが、大きな期待感は抱かせてくれます。上でも書きましたように、しっかりと地に足がついている様子なのがすばらしい。Bチームとトップチームを行き来しながら、一歩ずつ前進してくれることでしょう。ちなみにムニールが選手として目標にしているのが、献身的な姿勢と両足でのシュートの巧さに感銘を受けるペドロ・ロドリゲスだそうです。メッシがジュリーを超えていったように、ムニールはペドロを超えてクラックとなるか。このあたりの物語も、クレのお楽しみであります。

 

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