プジョル「マドリーは二度、僕と契約しようとした。でも僕はすでに世界最高のクラブにいたからね」

トップデビューからペップ黄金時代、マドリーからの誘いなど大いに語ったプジョル
グアルディオラが言うことは実現するので、皆が付いていくという

昨日8月1日、TV3にて“ Quan s’apaguen els llums(明かりが消える時)”という対談番組が放送されました。第2シーズン初回のゲストは、我らのカルラス・プジョル。そこで元カピタンはバルサ時代の裏話をふんだんに明かしておりまして、とても興味深い内容となっています。

たとえば、ペップ・グアルディオラについて。
バルサを黄金期に導いた偉人ペップがいかに選手たちを引っ張っていったのか、プジョルはこう語りました。

グアルディオラ前とグアルディオラ後があるよね。チームの何人かはすでに彼のことを知っていた。(Bの)監督だったり、カピタンだったりで一緒だったからね。現役の時から、彼はピッチ内の監督だったよ。彼はアイディアや情熱によって、僕らを確信させた。でも一番重要なのは、物事が彼が言うようになる点だね。だからみんな、信頼して彼に付いていくんだ」

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転機となったベルナベウクラシコへ臨むにあたって

カリスマペップ。
バルサが一気に栄光への階段を駆け上っていくポイントとなった、伝説の2-6ベルナベウ・クラシコにおいても、そのグアルディオラの指揮官力がいかんなく発揮されています。

「マドリーでの2-6は忘れられないね。ペップは僕らに、これは僕らにとってカギになる試合だって伝えていたよ。ラ・リーガではマドリーに対して勝点4の差をつけてたから、こちらは引き分けでも良かったんだ。でもその週最初のミーティングで、彼は僕らに我慢しようと考えてあちらに行くなと言った。そういうメンタリティだと負けるからと。僕らは勝ちにいく必要があった。だからそのための準備をしたよ」

聞いてますか、バルベ(げふんげふん)
あのエル・クラシコで語り草になっているのが、コーナーキックからのプジョルの炎のヘディング弾です。

「あの2点目のことはよく覚えているし、人々にも覚えられているよね。あのカピタン腕章のセレブレーション(キスをした)は、僕の内側から出てきたものなんだ。考えてはいたものなんだけれど、あれをしたことを誇らしく思ってる」

バルサ黄金時代の土台を作ったバンガール

なにせ1時間近い番組ですから、プジョルの話は多岐にわたっています。

少年時代の思い出では、兄の影響でフットボールを始めたこと。最初のポジションはポルテーロ(GK)だったこと。楽しかったけれども、背中(腰)を傷めていたことで母親にポルテーロを禁止され、デランテロ(FW)になったこと。

そしてラモン・ソストレス代理人らの頑張りによって、バルサ入団テストを受けられたこと。「全員が僕よりも上手かったよ」とのことですが、プジョルの良さはそこじゃないですから。合格にしたコーチさんを称えたいです。

ただ、プジョルはすんなりとファーストチームに上がれたわけではありません。なんといっても、当時のプジはガッツが売りの、全然バルサらしからぬ選手でしたから。

セラ・フェレール(育成部門のディレクターで、2000年にはファーストチームの監督も)に、マラガへ移籍するべきだって言われたよ。でもあちらの監督に戦力と思われなかったから、移籍目前だったというのはウソ。そのとき、バンガール(ファンハール)にトレーニングに呼ばれたんだ。そして彼は僕に、ファーストチームでトレーニングをして、Bで試合に出るように言った。彼は僕に考える時間を1日くれたけど、僕は“考える必要はないです、僕はここに残ります”って言ったよ。最終的には37試合に出場したね」

バンガールは直接的な人だから、彼にとって最高のラテラルであるサネッティを獲りたいって僕に言うんだ。でもムリだった場合は、僕のようなクラブ出身の選手が欲しいと。トップデビューはバジャドリー戦だった。怪我明けだったから状態はどうだと訊ねられて、準備万全だって答えたよ。バンガールはまず、多くのタイトルを獲得したことで重要な監督だったし、それからバルサで歴史を作った若者に多く機会を与えたことで重要だったね。彼はカンテラに賭けていた

チャビ、プジョル、バルデス、それにイニエスタ。毒チューリップと批判をされたバンバンでしたが、彼がデビューさせたレジェンドたちは数多いです。黄金時代の土台を築いたエキセントリックなオランダ人。

フィーゴを封じ、赤丸急上昇

がむしゃらなプレーでクレの支持を得ていたプジョル青年が、評価を急上昇させたのが2000年のエル・クラシコです。アイドルだったルイス・フィーゴが裏切り者となってカンプノウに戻ってきたこの試合で、プジョルがやつを抑えきった。当時のポジションは右ラテラルでした。

「フィーゴがマドリー選手としてカンプノウに始めて戻ってきた試合、その週の初めに“ポルトガル人のことを考えろ”って僕に言ったのはペップ・グアルディオラだったよ。フィーゴには特別なマークを付けるって話されてて、誰もがそれはレイジハーだと考えていたんだ。監督のセラ・フェレールからは、試合当日にそう言われたよ」

「試合中は、フィーゴとはあまり話をしなかった。フィーゴは最初のプレーで僕にドリブルを仕掛け、僕はヒザから倒れてね。ああ大変だって思ったよ。彼は当時、世界最高の選手の一人だったから。試合が終わると、僕らは抱擁を交わし、一緒にロッカールームの通路へと向かった。彼には“お前はなんて厄介なヤツだ”って言われた」

マドリーから二度の誘い

今では考えられないですが、2000年当時のバルサは5年間も無冠が続き、このプジョルチャビも当然タイトルと無縁。そのまま彼らが選手生命を終えても不思議ではなく、それではあまりにもヒドイので、せめてひとつくらいはタイトルを獲らせてやりたい、とファンが願うような悲しいクラブ状態でした。

「クレにとっても僕にとっても、すごく辛かったね。退団のオファーは、事実上毎年届いていた。マドリーは二度、僕との契約を試みていたよ。でも出て行かなかったのは、自分が世界最高のクラブにいるからだった。最初のオファーはフィーゴが去った時。二回目は代表で知り合ってたカマーチョがいる時だった。彼らはラモン・ソストレス(代理人)やバルサと話をしていた。ロナウジーニョと僕を獲ろうとしていたんだ。でもクラブも僕らも、答えはNOだった」

バルサは2003年、太陽王ロナウジーニョの到来によって劇的に変化します。
シーズンの前半戦は低空飛行が続いていましたが、フランク・ライカールトがどうにか持ち堪え(理事会も我慢した)、それまでの無冠ぶりがウソだったかのようにタイトルを獲得していったのです。プジョルは言います。

「ライカールトはすばらしい人であり、すばらしい監督だった。クレは彼にもまた感謝をしないといけない

2006年、パリ

ライカールト時代以降、プジョルの経歴は主要タイトルで埋まっていきます。ラ・リーガ、チャンピオンズ。スペイン代表ではEUROとムンディアル。そのなかでもプジの心に残っているのが、2005/06のチャンピオンズです。

「フットボール選手にとって代表レベルでもっとも重要なのはムンディアル優勝だけれど、僕の心に残っているのはパリでのチャンピオンズなんだ。その理由は、僕にとってはバルサこそがなによりも重要だから。そして2006年のチャンピオンズ優勝は特別だった」

そして2008年にはペップ・グアルディオラがカンプノウへと降り立ち、バルサは黄金時代に突入。2009年にはひとつめのトリプレーテ(三冠)を達成していきます。
その道の途中に誕生したのが、スタンフォード・ブリッジでの“イニエスタッソ”。プジョルはあの試合のことをこんなふうに振り返りました。

「出場停止によって、僕はあの準決勝をプレーできてなくてね。エスティアルテ(チームの外交担当)とスタンドから見ていたんだ。試合はチェルシーが勝ってた。でも僕は“落ち着けマネル、ワンチャンスくるから、ワンチャンスくるから”って言ってたよ。そしてアンドレシートがあれを決めて、僕らは全員でジャンプした」

ピケが人生を変えた

バルサが大きく変化した2008年夏、マンチェスター・ユナイテッドから復帰したのがジェラール・ピケです。やがてプジョルピケはセントラルでコンビを組み、クラブ史に残るタンデムとなっていくのですが、プジ先輩にとってジェリ後輩は仕事上の同僚を超えた存在でした。

ピケは弟みたいなものだよ。ピッチの中でも外でもすごく理解し合えていたんだ。それに僕らは議論もたくさんした。ピケは僕の性格を変えもしたよ。バルサでのすごく難しい時期の後だったんだけれど、彼は僕に楽しむことも必要だと教えてくれた。一日友人やチームメイトと夕食に出かけても、どうってことないってね」

そしてジェラール・ピケといえば、いずれバルサの会長になるかもしれない男。クレが夢見る未来のバルサ像について、プジはこう述べています。

ピケが会長で、チャビが監督で、僕がスポーツディレクター。僕らが上手くやれると思う?あなたは僕らに投票する?この件については、ジェラールとは話してはないんだ。彼はまだあと数年間プレーをしなくちゃならないし、他のこと(アンドラFCのオーナーになったり、会社を幾つも経営したり)に関わってるしね」「未来のことは誰にも分からないさ」

引退後も届いたオファー

カルラス・プジョルは2014年、ヒザの問題で引退をします。
キャリアの最後は怪我から復帰してはまた怪我、の繰り返しで、外野としてもそんなにムリをしないでとタオルを肩にかけてあげたいような日々。しかし常に100%を尽くすのがプジョルですから、ムリをしない選択肢はなかったのです。

ピッチに戻りたくて、最後の年は回復過程でムリをしすぎたね。でもある日、自分には出来ない、全てが終わったと気付くんだ。引退してからは、身体を休めて、幹細胞治療を行ったよ。今は準備をすればフットボールをプレーできる状態さ。レベルは全然違うけど、ゲームにも出たしね」

そんなプジョルさん、現役引退後もオファーが届いていたと明かしています。

「マイナーリーグのチームから、復帰しないかと毎シーズン提案があったよ。でも僕は自分にインテンシティを課すし、自分が最大レベルで競えないのであれば、僕にとって価値はないから」

そして文字数がすごく増えてきたので、最後にプジョルらしいコメントをひとつ。
それはカンテラーノに関するものなのですが、問題は子どもたちの親にもある、という意見です。カルラスの親御さんは全然口出しをしないタイプで、スタジアム観戦も2006年のチャンピオンズ決勝だけなのです。

「若い子たちにとって最悪なのは、疑いなく親だよ。彼らは子どもたちに、メッシやチャビ、アンドレス・イニエスタを見てるんだ。そして相応しくないプレッシャーを子どもたちにかける。子どもたちは楽しんで成長しないといけない。少しずつだよ」

プジョル 「100%でいけないなら、辞めようと決めていた」
全世界のクレ(のみならずフットボルファン)に惜しまれつつもバルサを退団し、9月からはアンドニ・スビサレッタの助手として新たな人生をスタートさせるカルラス・プジョル。先週土曜、バルサTVにて、そんなカピタンが15年に及んだトップチーム生活を振り返るインタビュー番組が放送されました。

(※この番組はフル動画が視聴できます。言葉は分からなくても、撮影場所となった夜のランブラスやカサ・バトリョの雰囲気がとてもすてきなので、一度見てみられることをお奨めします)

Carles Puyol
"El Madrid em va intentar fitxar dues vegades, però jo ja estava en el millor club del món."

 

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